【マガジンvol.2】 フランス・パリの歴史と移民問題を学ぶABC

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日本では旅行先としてポピュラーなヨーロッパの国フランス。
観光情報はたくさん出回っています。

では、そのフランスの首都であるパリはどのように発展してきたのか、また現代フランスと北アフリカ諸国はどんな関係なのか、知っていますか?

今回はA,B,Cの3つのキーワードでフランスについて一緒に学びましょう!

本当はAtoZと言いたいところだけど、そんなに書けないので。
まずはABCでもいいんじゃない?
ちょっと知ってるだけでもいろんなニュースが身近に感じられるはず。

  • Africa (アフリカ)
  • Blue (ブルー)
  • Capetian dynasty (カペー朝)
2011年夏、大学2年生ではじめてのヨーロッパでパリに行った。フランス観光1日目。最初にいった観光地、ノートルダム寺院で感動の涙。次に向かったのは庶民的で落ち着くドラクロワ美術館。ディナーはパリっ子行きつけのシャルティエ大衆食堂。
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Africa アフリカ

19世紀~20世紀初頭にかけてフランスは、イギリスらヨーロッパ列強とともにアフリカの植民地化を進めた。
そのため現代のフランスには多くのアフリカ系移民がいる。
フランスは現在でもアフリカへの軍事・経済介入を続けている。
2013年には旧植民地である中央アフリカ共和国へ治安維持を目的とした軍事介入を行った。

フランスの人口の約1割(フランスの移民の内では約5割)はアフリカ系フランス人だと推定されていて、中でもアルジェリアやモロッコの出身が多くを占めている。
アルジェリアにはアルカイダ系など複数の過激派テロ組織の本拠があり、フランス国内でも度々テロ事件を起こしている。

アフリカ横断政策

フランスは1830年にアルジェリア出兵で北アフリカへの侵略を開始した。その後はヨーロッパ列強によるアフリカ分割に関わり、フランス領西アフリカからスーダンに進出した。
1898年にはイギリスのアフリカ縦断政策とスーダンで衝突し、ファショダ事件が勃発した。
ドイツとはモロッコをめぐって対立し、1905年、1911年の二度にわたるモロッコ事件を経て1912年にモロッコを保護領化した。

心地良い喧騒が身体を熱くさせる。 モロッコ、マラケシュのメディナ(旧市街)は日々大勢の人を吸い込み、吐き出していく。 旅人の好奇と商人の欲望が交錯し、質素な暮らしと実際的な希望がすれ違う。 大きなうねりで訪れた者をトランスに誘う、旧市街ラプソディー。

サッカーフランス代表

france-abc7フランス社会の下層において多くの移民が貧困にあえいでいる。そんな移民たちの「夢」となるのがサッカーだった。

サッカーフランス代表は黒人選手を中心としてアフリカや中米にルーツを持つ選手が多い。
代表的なのはアルジェリア系移民2世のベルベル人であるジネディーヌ・ジダン。

ヨーロッパのサッカー史上最も偉大な選手の一人であり、移民出身者のアイコンとして国民的英雄になっている。france-abc6

他にカリム・ベンゼマもアルジェリア系ベルベル人、ポール・ボグバはギニア系、パトリック・ヴィエラはセネガル出身、ジブリル・シセはコートジボワール系、クロード・マケレレはザイール(元コンゴ民主共和国)出身など、1990年代半ば~現在のフランス代表の主力の多くはアフリカ系の選手で構成されている。

一方でアフリカ系の選手が多数を占める状況に対して、極右の国粋主義者から発せられる批判がしばしば問題となっている。
サッカーをはじめとして様々な分野で多民族の融和が進んでいるが、このこともフランスがしばしば過激派のテロの標的となる理由の一つとなっている。

Blue ブルー

france-abc1トリコロール
「青が自由、白が平等、赤が友愛」というのは俗説。「フランス革命時のパリ市民軍の標章の青・赤に王家の白を挟んだ」というのが通例。果たして真相は…多くの国の三色旗に影響を与えている。
レ・ブルー
サッカーフランス代表の愛称。日本でいうサムライブルー。毎回悔しいくらいかっこいい青いユニフォームを見せてくれるのはさすがフランス。france-abc5
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ステンドグラス
写真はパリのノートルダムだが、シャルトルのノートルダムは「シャルトルの青」と呼ばれ、ステンドグラスを通した青の光の世界が広がる。
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BlueBiz
出張などビジネス目的で、AIRFRANCE(エールフランス)航空、KLMオランダ航空またはアリタリア航空(イタリア)を利用すると、Blueクレジットが貯まり、特典と交換できるというサービス。
青いチョコ
フランス西部のロワール地方の小さな街にある老舗「ラ・プティ・マルキーズ」の名物チョコ、「ケルノン・ダルドワーズ」。値段はけっこうするが、日本でもネット販売で大人気。

bluechocolate

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「青が消える」
村上春樹がフランスの新聞ル・モンド紙に「ミレニアムの大晦日を舞台にした短編小説を書いてほしい」と依頼を受けて書いた短編。おすすめ。『村上春樹全作品 1990~2000』第1巻収録。

Capetian dynasty カペー朝

カペー朝は987年から1328年まで、341年間15代に渡って続いた中世フランスの王朝。
実はフランスの首都であるパリは、このカペー朝時代に首都に据えられてヨーロッパ屈指の都市に成長した街。

ではそのカペー朝が”中世都市パリ”の発展において担った役割はどのようなものだったのか?
ここでは歴代諸王の流れに沿って簡潔に見ていこう。

toriko3こんにちは、わたしはトリ子。トリコロールのセーター可愛いでしょ。
今日は一緒にカペー朝について学ぼう!

ユーグ・カペーの功績

987年、カペー朝の始祖であるユーグ・カペーの戴冠と同時にパリはフランスの首都になった。
ユーグ・カペーは王朝を開いてはみたものの権力基盤が弱く、フランス王を名乗っても各地の有力諸侯は相手にしなかった。
ユーグ・カペーの唯一にして最大の功績は、カペー朝を開いて”フランス”を作ったということだ。

トリ子メモ

toriko4ちなみにユーグ・カペーの”カペー”は日本語の合羽(カッパ)と同じ語源なの。
ユーグがいつもカペー(ケープ。マントのようなもの)を身に着けていたことから”カペー(マント)のユーグ”というダサいアダ名がそのまま家名(つまり王朝名!マント王朝なんてさすがフランス。しゃれてるねー)になってしまったのね。
それから、10世紀当時のパリは度重なるノルマン人の侵入によって荒廃した数ある村の一つだった。
だからカペー朝の当面の目標は、「パリの異民族侵入による危機を乗り越えること」、そして「各地の有力諸侯に対抗してフランス王としての地位を確立すること」だったってわけ。

ロベール2世とルイ6世

ユーグ・カペー以後の王は少しずつ、それでも確実に足元を固めた。
2代目のロベール2世はシテ島の王宮を修復し、ノルマン人に荒らされたサンジェルマン・デ・プレ教会を再建した。
5代目のルイ6世の時代には右岸のグレーヴ広場(現市庁舎前広場)を中心に商業が発展した。右岸に商業地区が、左岸~シテ島に官公庁、教会、裁判所、王宮などが位置していていた。
また、ルイ6世は1137年に中央市場(レ・アル)を定めた。これは商業における大きな発展要因となった。

フィリップ・オーギュストとパリ

「フランス王はいかなる上位者も持たない」
1202年に7代目の王フィリップ2世は、教皇権絶頂期(ヨーロッパ世界の中でローマ教皇の力がフランスやイギリスなど各国の王よりも強かった時期)のローマ教皇インノケンティウス3世をしてそう言わしめている。
とにかくフィリップ2世がカペー王の中でも傑出した王であったことは間違いない。
彼は”パリの町の建設者にして統一者であるとともに大学の創設者”*1でもあった。
そしてフィリップ・オーギュストはオーギュストの名の通り国王の尊厳を高め、同時にナショナリズムも高まり市民の間では徐々に自らをフランス人だという自覚が芽生え始めた。

*1 <参考文献>パリの歴史 (文庫クセジュ)/イヴァン コンボー (著),  小林 茂 (翻訳)

トリ子メモ

toriko2創設時はほとんど力のなかったカペー朝もついにここまで来たのね。「真面目にやってきたからよ。」って褒めてもらえそう。
フランス王は名実ともに立派な一国の王とみなされたということね。
そんなフィリップ2世のアダ名はフィリップ・オーギュスト(=尊厳王。でも”オーギュスト”の呼称は年代記作者リゴールが、フィリップ2世が8月生まれだったことに因んでつけたと言われている。 )。
彼は周辺に数々の戦争を仕掛けて王領を約4倍に広げた。
泥の道を石畳で舗装し、市壁の建設を行って パリを外敵から守った。このときつくられたルーブル城塞が、現在のルーブル美術館のもとになっているんだよ。
それから修道院や都市に特権を与えたり、学生を優遇して創設されたばかりだったパリ大学の発展にも大きく貢献した。
文化人、知識人や商人を王権(の末端の役人)から解放して自由な発展を促したってこと。

ルイ9世による完成

フィリップ・オーギュストによって一大都市となったパリは、孫の9代目、ルイ9世の時代におおよそ完成する。
ルイ9世は聖王ルイと呼ばれるほどの敬虔なキリスト教徒で、パリにキリスト教的要素を盛り込んだ。

当時、ヨーロッパ内で世俗君主としてのフランス王の地位はすでに固まっていたが、彼はさらにキリスト世界においても中心的な君主になろうとしていたということだ。

トリ子メモ

toriko1ルイ9世はラテン帝国皇帝のボードワン2世からキリストの茨の冠を買い取って、それを安置するために新しい聖堂を建設した。これが現在もシテ島(パリの真ん中にある、セーヌ川の中洲)にあるサント・シャペル。パリを訪れた人なら行ったことがあるかも。
シテ島の旧王宮の跡地にサント・シャペルを建設したことは、パリの中心にまたひとつ、キリスト教的要素を持ち込んだということなの。シテ島にはもうひとつ、有名なノートルダム寺院があるからね。

イケイケなフィリップ4世

11代目のフィリップ4世はその整った顔立ちから「端麗王」、「美男王」と呼ばれた。
いわゆるイケメンである。このフィリップ4世、政治手腕の方もかなりヤリ手のようだ。
ローマ教皇のボニファティウス8世と対立するとアナーニ事件*を起こし、ボニファティウス8世を憤死(怒りのあまり死んでしまうこと。)に追い込んだ。
さらには教皇庁を南東部のアヴィニヨンに移し、王権の支配下に置いた(アヴィニヨン捕囚*)。
そして中央集権を目指すフィリップ4世にとって邪魔な存在となっていた、ヨーロッパ各地で多大な財力を有していたテンプル騎士団*を壊滅させた。
このように度々大きな動きを見せて様々な評判が立っているが、本人はとても寡黙な王だったとも言われている。

トリ子メモ

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  • アナーニ事件:フランス国王フィリップ4世が側近に命じて、アナーニに滞在していたローマ教皇ボニファティウス8世を捕縛・監禁した事件。教皇はアナーニ市民に救出され、ローマに帰った。その後しばらくして教皇は憤死したと言われている。
  • アヴィニヨン捕囚:”教皇のバビロン捕囚”ともいわれる。ローマの教皇庁がアヴィニヨンに移されたこと。
  • テンプル騎士団:十字軍時代に結成されたカトリックの騎士修道会。十字軍戦争でキリスト教が一時的に獲得したエルサレムの保護を主な活動とした。多くの所有地と財力を狙われてフィリップ4世に解体された。

15代シャルル4世

カペー朝最後の王、シャルル4世の息子は若くして命を落とし、 王位は従弟のフィリップ6世が次ぐ(ヴァロワ朝創始)こととなった。
これをもってカペー朝の歴史は閉じられる。

さいごに

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今回はフランスについて、あまりためにならない?B級な情報をお届けしました。

こんな長文を読んで頂いた皆様の人生のどこかで、この情報が役立つときがくれば幸いです。
次回も(あれば)おたのしみに!

「世界で最も美しい街」と言われるチェスキー・クルムロフ。チェコ南部にある小さな世界遺産の街の、夏と冬をお楽しみください。