日本屈指の規模を誇る東急グループ。そして日本屈指の繁華街である渋谷。
今回は僕の「大好きな東急」と「よく行く渋谷」の歴史について書きます。
渋谷について
渋谷は京王井の頭線、東急東横線、田園都市線、東京メトロ銀座線、半蔵門線、副都心線の
起点駅であり、東京近郊の郊外住民と都内各地点を結ぶ交通の要所として機能している。
渋谷の街づくりにおいて、東急の果たした役割はそれなりにあるはず。
東急育ちの20代の僕からしたら、渋谷は完全に東急の街だ(でも渋谷が現在のような若者の街になる決定的な流れをつくったのは、東急ではなく西武なのかもしれない。旧セゾンの威力はすごすぎて全く説明できないのでパスします)。
東急沿線で一番の繁華街は渋谷なので、何かするには必然的に渋谷に来ることになる。たぶん東武や西武沿線の人が池袋に出てくるのに似ている。
東急と渋谷の歴史
戦前
現在の田園都市線の前身のひとつである玉川電気鉄道の渋谷駅は1907年に開業した。
1924年、円山町に百軒店が作られる。1923年に関東大震災で多くの街が被害に合うなか、比較的被害の少なかった渋谷に名店を呼び商店街が開発された。
続いて現在の東横線が1927年に、東急百貨店東横店が1934年にそれぞれ開業した。
戦後・高度成長期
戦後、駅前一帯はヤミ市となった。
1954年に東急会館(東横西館)、1956年には現在渋谷ヒカリエとなっている宮益坂谷底の場所に東急文化会館ができ、1960年頃からはセンター街に若者が集まるようになる。
1965年に駅を挟んで反対側に東急プラザ渋谷店が、1967年には渋谷区立大向小学校の跡地に東急百貨店が開店した。
渋谷は、大人の街としての側面を強めていた。
若者の街へ
そんな中、西武資本のPARCOの登場は渋谷を変えた。
1973年に公園通りにPARCOができると、通りの両側に流行のショップやカフェができファッショナブルでおしゃれなイメージが定着した。
若者は新宿から渋谷に移り、渋谷の街は大きく色を変えた。
東急は5年後の78年に東急ハンズ、翌79年に渋谷109をつくり、10代、20代をターゲットに新たなスポットを提供した。
1987年には109-2(現109MEN’S)で男性層も取り込み、89年には東急百貨店本店に併設する形で複合文化施設Bunkamuraをオープンした。Bunkamuraは東急グループにおける文化戦略の中心的プロジェクトとして進められ、音楽、演劇、美術、映像などの各種文化施設が入っている。
そして今や渋谷の顔ともいうべきスクランブル交差点の大スクリーン、TSUTAYA、スターバックスなどの入るQFRONTも東急グループの傘下である。
2000年代・再開発
2003年に文化会館が閉鎖し、2012年には跡地に都市型複合商業施設である渋谷ヒカリエが誕生した。
ヒカリエはオフィス、ショッピングセンター、飲食店、ミュージカル劇場、展示催事スペースなどがひとつのビルの中に立体的に集積されていて、21世紀の新たな複合施設のモデルケースとも言える。
東横線は東京メトロ副都心線との直通運転を開始し、ホームは地上2階?(3階?)から地下5階に移動した。
今後十数年以内にヒカリエ規模のビルがいくつも建設され、渋谷の街は駅も含め大きく変わろうとしている。
渋谷駅の再開発事業は 東京急行電鉄と東日本旅客鉄道、東京地下鉄 が共同で進めていくようである。
各社各線のホーム位置も変わり東西駅前広場をつなぐ自由通路の拡充、宮益坂、道玄坂の両方向をつなぐスカイデッキの整備など大規模な再開発が計画されている。
これから先に向けて
駅直結の施設でいろんなことができると便利になる。
だけれど一方で、人の流れが駅だけで停滞してしまい、いままで築いてきた渋谷の街全体としての魅力が失われかねない。
2012年に東急は原宿・表参道エリアの中心、神宮前交差点に東急プラザ表参道原宿をオープンさせた。立地的には渋谷駅より隣の原宿駅や表参道駅に近いが、十分に徒歩圏内である。
新たな人の流れを作るという意味でも駅から少し離れ、街と一体化した新しい施設を東急に作ってもらいたい。
渋谷駅を中心にして動線を縦横に引っ張り、東急本店・Bunkamuraからヒカリエまで(あわよくば東急プラザ表参道原宿あたりまで、遠いけれど)歩いて楽しいエリアを作ってほしい。
渋谷から原宿・表参道までを歩く道が閑散としてしまうのは寂しい。
坂道だらけの地形を活かして立体的な街区を洗練させれば、比較的平面的な街区の銀座や新宿とは違った「渋谷らしさ」が生まれ、これから先も魅力的な街として君臨することができるのではないだろうか。
渋谷に鉄道路線のない西武よりも、起点駅として据えている東急こそこれからの渋谷をリードするべきだ。
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