東欧旅行記④:ボスニア紛争の傷跡と現在

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友人のしょうへい君に、ゲストライターとして全5回に渡ってセルビア・コソボ・ボスニア・クロアチアを紹介していただきます。
第4回目である今回のテーマは、ボスニア・ヘルツェゴビナについてです。

ボスニア・ヘルツェゴビナについて

ボスニア・ヘルツェゴビナの基本情報

  • 人口:388.0万人(2013年:IMF推計)
  • 首都:サライェボ
  • 宗教:イスラム教、セルビア正教、カトリック
  • 言語:ボスニア語、セルビア語、クロアチア語
  • 通貨:マルク(KM)

ユーゴスラヴィアの縮図

ボスニア・ヘルツェゴビナは別名「ユーゴスラヴィアの縮図」と呼ばれています。

【ユーゴスラヴィアとは】
第二次世界大戦後、バルカン半島の6つの国と2つの地域が集まってできた連邦国家です。
・6つの国 :スロヴェニア・クロアチア・ボスニアヘルツェゴビナ・セルビア・モンテネグロ・マケドニア
・2つの地域:コソヴォ・ヴォイヴォディナ

第1回 東欧旅行記①:セルビアの歴史

でも触れたのですが、
ユーゴスラヴィアの多様さを表すかぞえ歌がありました。

「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言葉、3つの宗教、2つの文字、1つの国家」

ユーゴスラヴィアは複数の全く異なる国々が集まった連合国家であったためにこのように表されていました。

しかし、このような状態をたった一カ国だけで体現してしまう、そんな国がこのボスニア・ヘルツェゴビナなのです。

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http://www.yasuienv.net/Yugoslavia.htmより)

赤く囲まれているのがボスニア・ヘルツェゴビナ

これはバルカン諸国の民族分布図なのですが、見て分かるとおり、ボスニア・ヘルツェゴビナでは黄色(セルビア人)と緑(ボスニア人[イスラム教が多い])とピンク(クロアチア人)が混在し、しかもだいたい同じくらいの面積を占めています。

このように多民族国家となっているボスニア・ヘルツェゴビナ。
当然ながらそれぞれの民族で信仰している宗教も異なってきます。

首都サライェボでは一つの町どころか、通りを挟んで向かい合ってキリスト教、イスラム教、ユダヤ教の建物が建っていました。

▼キリスト教会
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▼イスラームモスク
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▼ユダヤ・シナゴーグ
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ボスニア・ヘルツェゴビナの歴史

ボスニアは世界を揺るがす大事件の舞台となったのですが、ご存じでしょうか?

20世紀初頭、当時ボスニアはオスマン帝国の支配下にありましたが、衰退していくオスマン帝国からオーストリアがこの地を奪い取ります。
ボスニアを自分のものにしたかったセルビアはとても怒りました。
「ボスニアをセルビアのものにすればかつての栄光、大セルビア王国を復活できたのに!」

この怒りがあの大戦争の引き金を引く事件へと繋がっていきます。

①第一次世界大戦

1914年、ボスニアの首都サライェボに来ていたオーストリア皇太子が、セルビア人青年の銃弾に倒れました。
サライェボ事件です。

▼ここがサライェボ事件の現場
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オーストリアがセルビアに宣戦布告し、第一次世界大戦の幕が上がりました。

第一次世界大戦とは、最初はセルビア vs オーストリアだったのですね。
この両者に各国が味方し合って世界規模となったのでした。

②ボスニア戦争

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サライェボでは、1984年に冬期オリンピックが開かれたことがあります。
そのサブグラウンドが現在は白い墓石で覆われていますが・・・

第一次・第二次大戦以後はユーゴスラヴィアというくくりの中で、バルカン半島の様々な国が共存していくことになります。
しかし、最近も最近、1992年にボスニアがユーゴスラヴィアからの独立宣言を出します。

このユーゴスラヴィアの中心勢力となるのはセルビアです。
セルビアは自分たちが中心となるユーゴスラヴィアを、大きなままで維持したいのです。

逆にこのユーゴスラヴィアから分離して、自分たちの国として独立したいのがセルビア以外の国々。
ユーゴスラヴィアに残ることを望むボスニア内のセルビア人はこれに反発し、同じくボスニア内のボスニア人・クロアチア人と対立します。

死者20万、難民200万人をだす、第二次大戦以後「最悪の紛争」が始まりました。

「最悪」というのは、この内戦で行われた民族浄化が理由の1つに挙げられます。
民族浄化とは、他民族を排除するために行われた強制収容・大量虐殺・レイプなどで、他民族に自分たちの子どもを産ませて自分たちだけの国にしようという恐ろしいもの。

また、最初は協力しあってきたボスニア人とクロアチア人も敵対し初めたことで、状況は泥沼化していきます。

それまで一緒にコーヒーを飲む仲だったお隣さんが突如として自分を殺そうとしてくる、そんな状態だったそう。

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ここはスナイパー通りという所です。
内戦中もボスニア人は生活のために家から出て、食糧などを調達する必要があります。
セルビア人はこうした人々を銃で打ち倒しました。

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この通りでは、動くもの皆銃の標的にされ、それは兵士・女・子ども・老人を問いません。

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スナイパー通りの端にある「Holiday Inn」というホテル。
このホテルは内戦中も営業し、ジャーナリスト達をかくまうことで、その実態を世界に発信する場となっていました。

1995年からアメリカを中心とするNATO軍の空爆もあり、停戦調停がなされ、内戦は一応終結しました。

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今でも残る傷跡

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私がサライェボに着く数日前、各地で反政府デモが起こっていたそうなのですが、それとおぼしきデモ現場に遭遇しました。

まだ準備中だったからか、それほどものものしい雰囲気ではありませんでした。

ボスニアでは内戦で受けた打撃から立ち直れたわけではありません。
いまだに失業率は高く、経済状態は最悪とのこと。

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希望へ

ボスニアの民族対立は様々な場面に飛び火します。

当時ボスニアのサッカー協会はセルビア人、クロアチア人、ボスニア人の3人の会長が存在する異例の状態にありました。

国際サッカー連盟(FIFA)は2014年ワールドカップの予選を前に、このボスニアサッカー協会に対して、「協会が1つに統一されない限り、国際大会への出場を認めない」という通達を出します。

そこで、協会統一のために白羽の矢が立てられたのが、かつて日本代表監督も務めたボスニア人のオシムさんです。

オシムは1990年のワールドカップでユーゴスラビア代表監督を務めましたが、92年にボスニア内戦が始まると、涙を流してこれに抗議し、代表監督を辞任していました。

ちなみにこの時の1990年ワールドカップでは準々決勝でPK戦にもつれ込んだ際、オシムが選手に「蹴りたいものは?」と聞いても、志願したのは2人だけ。
失敗したときの多民族からの攻撃に恐怖し、選手達の精神状態は尋常ではなかったそうです。

そんなオシムが各民族の民族主義者たちを説得し、ボスニア・ヘルツェゴビナサッカー協会を1つにすることに成功します。
ワールドカップ予選に出場できたボスニア・ヘルツェゴビナ代表は快進撃を続け、2014年ワールドカップに初出場を果たしました。

このチームには各民族の選手達がいますが、それでも協力し合い、国の歴史に大きな1歩を刻みました。

サッカーがボスニア・ヘルツェゴビナの平和へのきっかけになってくれれば良いなと思います。

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