メイです。
前回の投稿から、なんと丸1年が経ちました。笑
しかも狙ってないのに同じ6月30日ってすごい。
投稿していない間もたまに自分たちのブログを読み返して、「このブログおもしろ~早く続き読みた~」と言っていたのですが、ようやく再開しました。
現在私たちはフランスから帰国し、娘と3人で兵庫県の豊岡市というところに移住しました。
このことについてはいずれ、どこかに、書くのかな?
わからないけど、とにかく!旅行記書き進めます!
世界旅行記、2017年11~12月のバルカン半島(モンテネグロ・クロアチア・ボスニアヘルツェゴビナ)編です。
各国の旅行記、コラム、情報のもくじはこちら(世界一周)から。
星の数ほど
2017/12/7 モンテネグロ コトル~クロアチア ドブロブニク~ボスニア・ヘルツェゴビナ モスタル
昨晩予約したレンタカーは、ドブロブニク(クロアチア)を出発地にし、ザグレブ(クロアチア)を返却地点にした。
現在地コトル(モンテネグロ)からドブロブニクまでは移動費が高いため、ドブロブニクまでヒッチハイクをしてみることにした。ダメならタクシーで、という軽い気持ちで。
朝10時30分ごろヒッチハイク開始。
4人で道に立つとあまり止まってくれなさそうだと思ったので、まずはとっくんとなっちゃんが2人で挑戦。
2人はヒッチハイクはこれが初めてだ。
運転手たちは反応を返してくれるが、国境を越える人はなかなかいないのか、止まってくれる車は現れない。
この感じだと時間がかかりそうだったので、40分くらいでやめにしてタクシーで行くことにした。
事前情報ではタクシーで行くと80ユーロかかるとのことだったのだが、聞いてみたら60ユーロと言われて拍子抜け。
さらに少し値下げしてくれて55ユーロで行けることになった。よかった。
タクシーでの国境越えは、車の中で運転手にパスポートをまとめて渡すだけなので楽チンだ。
入国管理官に行き先や入国理由を聞かれだとき、「宿は決めてない。車を借りて、車中泊する」というようなことを言ったら、鼻で笑われた。
「鼻で笑う」ってこういうこと、っていうくらいすーごい鼻で笑われた。なんだ、文句あんのか。
▼道中の景色
国境から10分ほどでドブロブニク空港に到着。
空港内のベンチで朝作ってきたサンドイッチを食べたあと、レンタカー会社を探した。
レンタカー会社は空港を出て1本道を挟んだところにある、プレハブでできた小さなブースだった。
中を覗くと店員がおらず、用があれば電話してくれとのメモが置いてある。
4人とも通話可能なスマホを持っていなかったので、通りかかった人に声をかけ、電話をしてもらった。
しばらくしてスタッフが車で登場。
手続きを始めるから予約したときのバウチャーを今メールで送れとのこと。
そちらから送られてきたバウチャーを、そちらに送れって?なぜ?画面を見せるだけじゃダメなの?
よくわからないが、それをしないと車が借りられない。
なんとかメールを送ることができたが、Wifiが重かったせいでかなり時間を食ってしまった。
つづいて車の傷などを確認。
以前ドイツでレンタカーを借りたことがあるのだが、そのときとは違ってかなり丁寧な確認をしていた。
国境で使うグリーンカードなどの書類を受け取り、やっとこさ出発。
わたしとシュンはマニュアル車の免許は持っているが、教習所以外で運転したことは一度もない。
ここはまず、マニュアル車の運転経験のあるとっくんの運転でドブロブニクの街まで向かうことにした。
ドブロブニクの山の上の方まで行った。
魔女の宅急便的なアレで有名な景色だ。
とてもきれいでしばらく眺めていたら、サンセットの時間になった。
夕日の迫力はすごかった。
こんなに大きな太陽は見たことがないし、赤を超えて、白くメラメラ光っている。
1日の終わりだっていうのに勢いが尻すぼみになるどころか1日で1番輝いて、一瞬で沈む。
夜景まで見たかったけれど、夜の山道は危なさそうだったので先を急ぐことにした。
再び車を走らせ、ボスニア・ヘルツェゴビナのモスタルへ向かう。
国境は山の中の料金所みたいだった。
車を降りずにパスポートを渡すだけ。
窓の外を眺めていて、ふと空がすごいことになっているのに気づいた。
満天も満天、一面の星空だ。
外に出て、みんなで星を見上げる。
「星の数ほど」という言葉は、日本の都会で生活しているとあまりいい比喩ではないなと思っていたけれど、すごい、これは「星の数ほど」だ。
しかも、プラネタリウムみたいに空が半球になって見える。
ガチャポンの上半分にカポッと囲まれてしまったようで、少しの恐怖を感じながらも、すごく興奮したし、本当に感動した。
あの星空は、これを書いている今でもわたしの星空ランキング1位だ。
その後も進み、モスタルに着いたのは21時頃。
もともと車中泊しようという話だったが、とっくんとなっちゃんは疲れもあってかやはり宿に泊まりたくなったらしく、なんとか街なかでWi-Fiを探して宿を予約した。
ところが予約した宿に向かうも、一向にその宿が見つからない。
車を停め、4人で真っ暗で寒い中、近くを歩いて探し回る。
最終的にはマックまで行ってWi-Fiを拾い、予約サイトの写真を見直して、やっと見つけることができた。
1時間くらいは探し歩いたと思う。
▼宿はものすごい数の銃弾の跡がある廃墟の奥にあった(翌日に撮った写真)
宿の人はいい人だったし、部屋も広くて過ごしやすかったのだが、なにしろ寒い、寒すぎる。
2,3部屋あるのだけれど、暖房はリビングにしかなく、それをつけたところで全然暖まらない。
それなのにお湯も安定しないので、シャワーを浴びるのは断念した。
こんなに寒い国なのに、暖房設備や給湯設備がしっかりしていないのは、やはり東欧だからなのか……?
明日のことを決め、ほとんど着替えず厚着をして寝た。
ボスニア紛争と、幸運の黄色いトラック
2017/12/8 ボスニア・ヘルツェゴビナ モスタル~サラエボ
あー寒い寒い、この宿ほんとに寒い。
朝食と支度を済ませたが、とっくんとなっちゃんはあと30分くらいかかるらしいので、2人の提案で先に街歩きをしていることにした。
オフシーズンだからか、街の観光地らしい場所にも観光客はあまりいない。
行こうとしていた博物館はオフシーズンで閉まっていたので、戦争写真館というところへ行くことにした。
ここにはボスニア紛争(ボスニア内戦)が起こった当時の様子を、ニュージーランドのカメラマンが収めた写真が展示されていた。
ちなみにこの写真館もあと数日で閉まってしまうらしい。
ここのスタッフの女性がとてもいい人だった。
「質問があればなんでも聞いてね、わたしは戦争当時2歳で覚えてないけれど、体験はしているから」。
歳は私たちの1つ上。この歳で戦争経験者だなんて。
ボスニア紛争について簡単に説明してみる。
1992年、ボスニア・ヘルツェゴビナはユーゴスラビアから独立を宣言。
ボスニアにはセルビア人、ムスリム人(ボシュニャク人)、クロアチア人の3つの民族が混在していたが、独立に反対するセルビア人と、独立を推進するムスリム人・クロアチア人が対立。
のちに、協力しあっていたムスリム人とクロアチア人も対立しだし、泥沼化していった。
争いは3年以上続き、中でも「民族浄化(大量虐殺や強制出産など)」が行われたことなどから、第二次世界大戦後のヨーロッパで最悪の紛争と言われている。
ボスニア紛争について詳しくは、以前大学時代の友人のしょうへいにゲストライターとして書いてもらった記事がとてもがわかりやすいので、ぜひそれを読んでみてほしい。
スタッフの彼女にいくつか質問をしてから写真館を出た。
街をふらふらと歩いていたら、偶然とっくんとなっちゃんに会い合流した。
4人で宿に戻り、車でサラエボを目指す。
順調に道を進んでいたが、途中から雪道になってきた。
このくらいの雪ならまだ行けるかな?と思いつつ進んでいたら、どんどん深くなっていって、ついには車が進まなくなってしまった。
運転手のとっくん以外の3人で車を降り、アクセルを踏むのと同時に手で押すことで少しは進めたが、もうこれ以上行ったって仕方がない。
どうしたもんかと唸っていたところ、向こうから黄色いトラックがやって来た。
私たちの前で停まると、当然のように車から降り、ロープを車に引っ掛けて(引っ掛けるところなんてあったのか。)転回できるところまで引っ張ってくれた。
助けてくれたのは、ものすごく優しい人たちだったからなのか、それが彼らの仕事だったからなのかはわからないが、とにかく手際が良かった。ありがたい。運が良すぎる。
もし誰も通らなかったら、と思うと少し怖くなるが、人数が多いと「なんとかなるでしょ!」という思いが強くなり、楽観的に過ごせる(それが危険でもあるが)。
靴下までぐちゃぐちゃになりながらみんなで車を押したのがいい思い出だ。
2時間くらいかけて来た道を引き返し、別の道からサラエボを目指す。
22時前には無事サラエボに着いて、宿へ。
めちゃくちゃいい宿だし、宿のおじさんもすごく優しい。
ここに1週間くらいいたい……
夕飯は野菜たっぷりレバーパスタ。
京都出身の2人は、「肝パスタ」って言ってた。
ビールを買い足してお腹いっぱい。
この2人と合流してから、何回途中でビール買い足しに行ったことか笑
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